マヤカは世界の「物差し」

そして、大学1年目の駅伝シーズン。マヤカは山梨学院大のエースとして、出雲駅伝のアンカーを務めてチームを優勝に導いた。箱根でも、二人のゴールデンルーキーは2区に登録された。渡辺の胸中には、「来たな」というワクワク感と、不安感が入り混じっていたという。

本番で早大は1区の櫛部静二が区間賞の好スタートを切り、渡辺は終始独走した。マヤカは1区4位だった飯島理彰(まさあき)からたすきを受けて渡辺を追ったが、届かなかった。

『箱根駅伝-襷がつなぐ挑戦』(著:読売新聞運動部/中央公論新社)

ただ、区間賞は1時間8分26秒でマヤカ。渡辺は22秒遅れの2位だった。早大は総合優勝したものの、渡辺は個人で負けたことが何より悔しかった。早大の先輩でもある瀬古利彦の指導の下、世界を目指していた渡辺の魂に火がついた瞬間だった。

瀬古によく言われたのが、「マヤカ君より速い選手はケニアに山ほどいる。マヤカ君に勝てなければその上はない」ということだった。1年生の頃から夏は瀬古に海外での試合に連れて行かれた。

レースで負けるたび、「どれだけ日本のレベルが低いか、徹底的にたたき込まれた」という。そんな中、日本に現れた「世界基準」のライバルがマヤカだった。日本人の同世代では得られない高揚感が、渡辺にはあったのかもしれない。

渡辺は「マヤカ君を『世界の物差し』と見ていた」と振り返る。

指導者としての瀬古は、常に世界を見ていた。「国内の小さいレースで型にはまるな。世界に出ていくためにあなたたちは早稲田に来たんだ。エースになりなさい。箱根だけの選手になっちゃダメだ」と、渡辺らに説き続けた。

渡辺も、箱根駅伝が終わった2日後に40キロを走ったこともあった。そして、めざましく進化した。

大学1年目の世界ジュニア選手権は、1万メートルで銅メダル。ただ、渡辺は決して満足しなかった。ラスト2キロ付近で先頭に置いていかれ、最後は優勝した選手にトラック半周近い差をつけられた。この時の優勝者は、男子マラソンの元世界記録保持者ハイレ・ゲブレシラシエだった。

2年時のユニバーシアードは、事前に約1か月間欧州のレースで武者修業をしてから会場の米国入り。その後もコロラド州ボルダーの高地合宿で体をいじめ抜いた後に、本番の1万メートルで銀メダルに輝いた。