二人の決着
3年時の箱根で、二人は再び直接対決に臨んだ。大学のレースなどでたびたび顔を合わせ、日本語でやり取りする中、渡辺自身は「ライバルであり、友人」という感覚が強くなっていったが、世間はライバル対決の構図を期待した。
二人が2区を走ることが決まると、「区間新記録」を公言する渡辺に対し、マヤカも「口で言うのは簡単」と応じた。渡辺も「マヤカ君は1時間6分台で来るだろう」と踏んでいた。
その上で、当時の鈴木重晴監督に「1区は誰でもいい。区間賞で来られるより、後ろから追いかける方が走りやすい」と伝えたという。
本番では山梨学院大が1区からトップに立った。9位でたすきを受けた渡辺は、必死に前を追った。1年時の走りを振り返り、2年間の実力の上積みを考慮し、6分台のイメージは頭に入っていた。
「最初の5キロを14分20秒ほどで入り、10キロの通過は28分30~40秒で行く。次の5キロは15 分切りで権太坂を上って、15キロからは休まずにリズムよく14分30くらいで下っていくイメージ。最後の3キロのノルマはもうない。あとは頑張るだけで、7分は切れる」
途中ほぼ誰とも競ることなく、単独走で史上初めて1時間7分の壁を破り、1時間6分48秒の区間新を樹立。チームを9位から2位に押し上げる激走だった。しかし、マヤカの背中は遠かった。マヤカも区間2位の1時間7分20秒で走り、さほど差は縮まらず、総合成績では山梨学院大が連覇、早大が2年連続2位となった。
4年目は、渡辺が世界選手権男子1万メートル予選で27分48秒55をマークして瀬古の学生記録を更新。
福岡ユニバーシアード1万メートルではケニア代表のマヤカを破って金に輝いた。箱根でも再び二人は2区を走り、渡辺が再び1時間6分台の好走を見せた一方、マヤカは1時間9分台の区間3位と不調に終わり、2人の韋駄天(いだてん)はついに肩を並べて走ることなく箱根路を卒業した。
渡辺は卒業後、96年のアトランタ五輪1万メートル代表に選ばれた。しかし、ケガで出場はできず、その後も故障に苦しみ2002年に引退した。