箱根駅伝の構想
翌19年、箱根駅伝の構想が持ち上がる。その創設を巡っては、いくつかのエピソードが残っている。
第1回大会に参加して明大の5区を走った沢田英一は59年12月、大会創設40年に合わせて読売新聞に「第一回大会の思い出」を寄稿した。それによると、きっかけとなるアイデアが生まれたのは19年10月だった。
金栗と沢田、東京高等師範の教員だった野口源三郎が、埼玉県の小学校に運動会の審判員として招かれ、上野駅から乗った汽車の車中で、「今度はどこを走ろうか」と語り合った。
その年、沢田は札幌―東京間と新潟―東京間を、金栗は下関―東京間を走破していた。その場で出たのが「アメリカ大陸横断」の案だった。それ以降、さらに3人で検討し、まず選手選抜のための駅伝を開くことにした。
関東学生陸上競技連盟が89年に発行した『箱根駅伝70年史』によると、東京―箱根のほかに、水戸―東京、日光―東京のコース案もあったとされる。しかし、風光明媚で多くの史跡に富み、宿泊や通信連絡にも便利だとして東京―箱根間のルートに決まった。