第1回大会に参加して明大の5区を走った沢田英一は59年12月、大会創設40年に合わせて読売新聞に「第一回大会の思い出」を寄稿した(写真提供:photoAC)
まもなく第100回箱根駅伝が開催されます。昨年まではコロナの影響で叶わなかった沿道での応援も、今年から解禁になりました。これまでさまざまなドラマが繰り広げられてきた箱根駅伝。記念すべき第100回を前に、箱根駅伝創設時のエピソードを紹介します。箱根駅伝が始められたのは創設者、金栗四三の力だけではなかったそうで――。

箱根駅伝創設に関わった人々

箱根駅伝の創設者として金栗四三(かなくりしそう)(1891~1983年)の名前は広く知られている。しかし、これだけの大事業が金栗一人の力で始まったわけではない。

金栗を取り巻く多くの若者の夢や情熱が結実し、その後、100年以上も続く大会が誕生した。大正時代の若者たちが思い描いたアイデアを具現化し、実務面で支えたのが澁谷寿光(1894~1983年)だった。

澁谷の孫で山梨県立大名誉教授(法学)の彰久さんは2019年、祖父の足跡を調査し、冊子「箱根駅伝コースはどのようにして作られたか―澁谷寿光を通した駅伝史研究のための一考察―」をまとめ、関係者に配布した。

20年に東京五輪(新型コロナ禍で21年に延期)を控えた時期で、1964年東京五輪では陸上競技審判団団長を務めた祖父の功績を、スポーツ史は専門外ながら、文献を渉猟して学術的に検証した。

澁谷は1894年、神奈川県松田村(現松田町)に生まれた。1913年、東京高等師範学校に入学し、徒歩部(陸上部)に入る。その前年、金栗は日本初のオリンピアンとしてストックホルム五輪のマラソンに出場したものの、熱中症のため途中棄権していた。

その悔しさを晴らすため自ら鍛錬し、共に切磋琢磨する仲間を育て始めた。澁谷が入学した13年、金栗は徒歩部の室長となり、後輩たちの指導にも当たる。澁谷は校内マラソン大会優勝などの実績を残した長距離ランナーだった。

18年、澁谷は東京高等師範学校を卒業。小田原中(現小田原高)に物理化学の教諭として赴任し、徒歩部の顧問になった。

部員の一人だった河野謙三は、後に早大で箱根駅伝に出場し、もっと後には参議院議長を務める。この小田原中で金栗は講演会を開くなどしており、卒業後も澁谷と金栗の交流は続いていた。