おみやげは受け取る側の気持ちで価値が決まる

夫は家族や友人たちからもらったさまざまなおみやげを、自分の部屋にある古いガラス製の戸棚に収納している。

そのなかでもとくに嵩張るギリシャの先史時代の甕のレプリカや、平等院鳳凰堂の模型、タイで買った木彫りの象は私が夫にあげたものである。仁王像や木彫りの熊に対してあれこれ言える筋合いはまったくない。

私は今でも旅先で友人たちにどっさりおみやげを買い込んでしまう癖があるが、そうした買い物も結局は、旅で高揚している自分の一方的な自己満足であり、受け取る側は苦笑いをしている可能性がある。

子どもの頃、演奏旅行から戻ってきた母に、熊の顔のがま口をもらったことがあった。

垢抜けないデザインだったが、普段は滅多におみやげなど買わない母が自分のためにそのがま口を選んでくれたことが嬉しくて、本当に大事に使っていた。だから、なくしてしまったときの悲しみは今でも生々しく覚えている。

母は、私がなぜそれほどそのがま口に執着するのかわからないようだったが、そもそもおみやげというのは渡す側より受け取る側の気持ちでその価値が決まる。ブランド品だから、高価だから、喜ばれるとは限らない。