おみやげというのは渡す側より受け取る側の気持ちでその価値が決まるものである
ある日、荷物の整理をしていたというマリさん。段ボールを開けてみると、プラスチックの仁王像や木彫りの熊、ピラニアの剥製などのいわゆる”おみやげ”が出てきたそうで――。(文=ヤマザキマリ、写真=山崎デルス)

おみやげ考

海外で引っ越しを繰り返すごとに、自分なりに潔く断捨離をしてきたつもりだった。にもかかわらず、新しい住居に到着した荷物の段ボール箱を開けてみると、思いがけないものが出てきたりする。

「京都」と刻印の入ったプラスチックの仁王像や、鮭を咥えた木彫りの熊。ピラニアの剥製。誰かにあげたか捨てたかしたはずなのにおかしいな、と首を傾げていると、夫がゴミ箱から救い出してきたのだという。

「人からもらったおみやげを簡単に捨ててはいけないよ」というのが、夫の言い分だった。確かに、仁王像のレプリカは見ただけでそれをくれた40年前の友人を思い出すし、木彫りの熊は、かつて母が「うちに置き場所がないから」と自分の家にあったのを持ってきたものだった。

いらなくなったら捨てていいわよ、と言われていたが、夫からは「こんな芸術作品を捨てるなんて」と責められた。ピラニアの剥製(というよりヒモノの飾り物)については、かつて滞在していた南米アマゾンの小さな集落で、それを売ってくれた先住民の少女の屈託ない笑顔が今でも思い浮かぶ。

自分用のおみやげではあっても、それを調達したときの記憶を蘇らせてくれることを思うと、断捨離に容赦は不要とはいえ、忍びない気持ちになってくる。

(撮影=山崎デルス)