玉男さんの第一の転機は、ごく平凡な生活をしていた中学二年生が、ふとした偶然から、生涯そこで名を馳せるまでになる文楽へ誘導されたこと、だろうか。
――まさにそうやと思います。うちの近所にたまたま人形遣いの吉田玉昇(たましょう)さんという方がいて、この人は初代玉男師匠の預かり弟子という身分でした。
ある日のこと、文楽人形遣いの人数が足りないんでちょっと手伝いに来てくれへんか、と言われて、なんにもわからずアルバイトのつもりでついて行ったら、道頓堀の朝日座の楽屋の廊下にズラーッと文楽の人形が並んでいるのを見て、その光景に圧倒されましてね。不思議な、面白そうな世界やなぁ、って。
もうその日から、学生服のズボンの上に黒衣(くろご)を着せていただいて雑用のお手伝いなんですが、でもその時、文楽協会ができて初めての通し狂言『絵本太功記』を行うことになったので、人手不足で人形持たしてもろて舞台に出たんですよ。「尼ヶ崎の段」の幕切れ、真柴久吉方の軍兵。一人で持って出るツメ人形(一人で遣う、その他大勢の役の人形)ですけどね。
そしたら次の日お袋とおばあちゃんが観に来て、朝日座には二階がありましたのでね、そこから、「あぁ、出て来た出て来た」と言ったりして。頭巾かぶらずに顔出してましたから。嬉しかったです。
それで中学三年の時に、両親を説得して正式に文楽入門です。両親は高校へ進ませたかったし、鉄工所の仕事も継がせたかったみたいですが、僕は勉強嫌いやし、まぁ、できなかったしね。(笑)