2人の母
1939(昭和14)年9月11日。胃と心臓を患って長らく床に伏せていた養母・うめが亡くなった。その直前、危篤の電報が帝劇に届いた時に、OSSK時代からの恩師で、シヅ子を自宅に下宿させている山口國敏が、すぐに大阪へ帰るようにとスタッフと相談、段取りをつけた。
しかし、やはりトップスターの春野八重子が病気入院中で、シヅ子は自分のレパートリーだけでなく、春野のパートまで引き受けて、さらに五つほどのナンバーを歌っていた。それゆえに代役を立てるわけにはいかなかった。
シヅ子は動揺を隠して「わてのお母はんも東京へ行ったら、死ぬ気で戦ってこいと言ってはりましたから。死に目に逢いに行くより、舞台を守ってた方が喜んでくれますやろ」と、帝劇のステージに立ち続けた。
まさにショウ・マスト・ゴー・オンの精神である。満面の笑みを浮かべて、パワフルな歌声でシャウトし、舞台せましと踊る笠置シヅ子への、観客、スタッフ、業界の人々の期待はますます高まっていく。
死の間際、養母・うめは「静子に一目逢いたい」と言っていたが、シヅ子は帝劇で大役を得ているのでどうしても帰れない、との電報を見て「あの子も東京でどうやらモノになったのやろ」と安堵の表情を見せた。
うめは、自分の死に目に逢えない娘を、産みの親の死に目にも逢わせたくないと考えていた。自分が養母であること、産みの親・谷口鳴尾がいることを、シヅ子に言わないでほしい。それがうめの最後の望みだった。
実はシヅ子は18歳のとき、気管を痛めて少女歌劇を休演して、うめと八郎とともに、郷里近くの白鳥海岸(現在の東かがわ市)に避暑に出かけた。その時がちょうど、実父・三谷陳平の17回忌で「志津子には法事に出てほしい」と親戚から話があった。
しかしうめは、シヅ子に出生の秘密を知られたくないので、それを拒んだ。そこへ大阪の音吉から銭湯が忙しいから「戻ってくるように」と電報があり、うめと八郎は一足先に、大阪へ戻った。