鉱山の直轄化
つぎに鉱山の直轄化であるが、合戦が終わった直後の慶長五年(一六〇〇)九月二十五日付で、印文「忠恕」の朱印で、石見国邇摩郡の六ヵ村と那賀郡の一ヵ村、合わせて七ヵ村宛に禁制を出している。
いうまでもなくこの地には日本最大といわれた石見銀山(大森銀山ともいう。島根県大田市)があった。毛利氏が領有していたが、この九月二十五日は領知の安堵を保証された輝元が、まさに大坂城を出た日であった。
家康が大坂城に入ると、輝元が主体的にかかわった証拠がつぎつぎと出てきて、領知安堵の約束は反故にされ、最終的に周防・長門の二ヵ国のみが安堵された。十一月には大久保長安・彦坂元正を現地に下向させてこれを接収し、翌六年八月に長安を初代銀山奉行とした。
長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って銀山開発を急速に進め、莫大な銀を家康に納め、これが朱印船貿易の元手にもなった。
その他の鉱山として、最大の生産量を誇った佐渡相川の金銀山、佐渡金山に次ぐ生産量の伊豆土肥の金山、甲斐黒川の金山、但馬生野の銀山などがあった。
これら金銀山の直轄経営にあたって辣腕を振るったのが、代官頭でもあった大久保長安である。長安は元は武田氏の蔵前衆(代官)であり、武田氏の滅亡後の徳川氏による甲斐経略の過程で見出された。
徳川氏の関東転封により武蔵八王子に陣屋を構えて地方支配に当たり、次第に頭角を現した。金銀山の開発・経営では配下のすぐれた山師を駆使し、甲州流の採鉱技術に加え、中国やメキシコからもたらされた新技術を導入することで、生産量を飛躍的に伸ばしたのであった。