対外政策への意欲

第三に、対外政策についても、早くから意欲的な取り組みを始めていた。

関ヶ原合戦の直前、慶長五年(一六〇〇)三月に豊後臼杵(大分県臼杵市)にオランダ船リーフデ号が漂着した。当時大坂にいた家康はさっそくこれを堺に回航させ、船長のヤコブ・クワケルナックらから海外事情などを聞き、さらに浦賀への回航を命じた。

その後、船長らは帰国を許されたが、イギリス人の航海長ウィリアム・アダムス(三浦按針)とオランダ人の航海士ヤン・ヨーステン(耶楊子)は帰国を許されず、大御所家康のいわば外交顧問になったことはよく知られている。このリーフデ号の漂着は、新教国のオランダとイギリスが日本貿易に介入するきっかけとなった。

それまでの主役は旧教国ポルトガルで、貿易と布教とは一体になっていたが、その日本貿易の拠点は、海賊討伐の功により中国の明から割譲されたマカオであった。元亀元年(一五七〇)にこのマカオと長崎間で仲介貿易を始め、白糸とよばれた中国産の生糸を日本に持ち込み、日本からは大量の銀を持ち出して、莫大な利益を上げたのである。

家康は早くから海外諸国との交易に関心を持ち、関ヶ原合戦の翌慶長六年(一六〇一)十月から、いわゆる朱印船貿易を開始した。「日本国源家康復章」で始まる安南国(ベトナム北・中部)への返書において、来航する商船の安全を保障するとともに、朱印状を所持しない日本商船との交易禁止を求めたのである。

この後、寛永の鎖国令に至る三〇年余りの間に派遣された朱印船は三五六艘に及ぶといわれ、そのうち家康存命の元和二年(一六一六)までが二〇六艘と、六割近くに及んでいる。

多くの日本人が東南アジア各地に出かけ、 交趾(ベトナム中部)のツーランやフェフォ、 柬埔寨(カンボジア)のプノンペンやピニャール、暹羅(タイ)のアユタヤ、 呂宋(フィリピン)のマニラなどでは、日本人町が栄えた。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。

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