東海道交通の重視

第二に、東海道をはじめとする街道の整備に、いち早く取り組んだことである。

東海道の宿駅設置は慶長六年(一六〇一)正月のことであったから、関ヶ原の合戦からわずか三ヵ月余りということで、家康が江戸と上方とを結ぶ東海道交通の整備を、いかに重視していたかがわかる。それは、つぎのような内容のものであった(拙著『近世の東海道』)。

宿駅設置の指定は、伝馬朱印状とその副状(そえじょう)、および五ヵ条にわたる伝馬定書とによって行なわれた。

伝馬朱印状は「この御朱印がなければ、伝馬を出してはならない」という極めて簡単なもので、図のような馬子が馬を曳いている図柄の朱印が捺されていた。副状は徳川家の奉行衆伊奈忠次・彦坂元正・大久保長安三名の連署状によって、御伝馬はこの御朱印によって仰せ付けるので、よくよく引き合わせて勤めるようにと通達された。

【図】「駒曳」伝馬朱印

伝馬定書は同じくこの三名の奉行衆によって通達されているが、たとえば由比宿(静岡市清水区)に下された「由比百姓年寄中」宛の伝馬定書についてみると、(1)常備する伝馬は三六疋と定める。(2)上りは興津、下りは蒲原まで継ぎ送ること。(3)伝馬一疋分あたり、 居屋敷(屋敷地)で三〇坪(一坪は約三・三平方メートル)ずつ、 地子(土地税)を免除する。(4)合わせて一〇八〇坪(三六疋分)を、居屋敷で引き取ってよい。(5)荷積(にづみ。荷物の重量)は、一駄につき三〇貫目(一貫は約三・七五キログラム)までとする、としている。

(2)の規定に明確だが、近世の宿駅伝馬制度では、物資の輸送は宿から宿へと継ぎ送る方式を採っていた。いわゆる「東海道五十三次」とは、江戸日本橋を起点として京都に上る場合でいえば、最初の宿が品川宿で、京都に入る最後の大津宿が五三番目ということで、五三の宿場があったことを意味している。