「五十三次」というより「五十七次」?
これを「五十三宿」といわず「五十三次」というのは、宿ごとに荷物を継ぎ送るということで、「五十三継=次」とよばれたからである。
この東海道の宿駅は、慶長六年(一六〇一)にいっせいに設置されたとはいえ、いろいろな事情で八宿については実際の設置はかなり遅れた。最後に設置されたのが寛永元年(一六二四)の庄野宿(三重県鈴鹿市)で、これによって「五十三次」が出揃うことになった。
なお、その後の東海道の発展を考えると、「五十三次」よりも「五十七次」といった方がふさわしいであろう。元和五年(一六一九)に大坂が直轄領となり城代が置かれるようになると大坂の政治的な地位が高まり、東海道も京都の三条大橋ではなく、大坂の高麗橋までとなった。大津から大坂に向かう場合、若干の変遷を経て新たに伏見・淀・枚方・守口の四宿が加わり、「五十七次」となった。
道中奉行の管轄下に置かれた東海道は「五十七次」であり、『東海道分間延絵図』や『東海道宿村大概帳』などの調査対象も五十七宿であった。慶長七年(一六〇二)には中山道の宿駅も設置され、やがて五街道の整備へと進んでいった。