イタリア料理は基本的に庶民の食文化

とにかく私は、日本に蔓延(はびこ)るゴージャスなイメージのイタリアという違和感を払拭したかった。なので、その番組において私が作った料理の品々は、全て家賃もインフラ使用料も支払えずにいた私と同棲していた詩人の彼氏を飢え死にから救ってくれたものばかりだった。

生放送なのでうっかりプロセスを間違ってもつぶしがきかず、それでも強引に押し切って仕上げた料理は必ず推定原価を伝える。すると、北海道に暮らす多くの主婦から「あのガサツなひとのイタリア料理、とても参考になりました」「ローコストで簡単なのは助かります」などといったコメントのファックスが届き、一方イタリア料理店からは「あの女をテレビに出すのをやめてください」という苦情が届きまくったという。

「これはおそらくイタリアでも最もコストの掛からない一品で、原価はおそらく100円を切っていると思う」(写真提供:Photo AC)

とはいえ、私は嘘を伝えていたわけではないし、たとえばカテリーナ・ディ・メディチを経由してフランス料理の礎になったのがフィレンツェの宮廷料理などとされてはいても、イタリア料理は基本的に庶民の食文化として育まれてきたものである。

フィレンツェという土地では豚でも牛でも羊でも、モツから脳みそ、そして骨髄に至るまであらゆる部位を食する傾向があるが、私が感受してきたイタリア料理というのは東京の赤羽や十条あたりの立ち飲み屋で出される料理に近い感覚がある。

それ以前に、そもそも私はイタリアに限らず日本だろうと世界のどこであろうと、貧乏や困窮した社会を反映しているような、慎ましい食べ物が好きなのである。