老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 外出着を洋服箪笥にしまい、涼音は暫し考える。
 達也が渡仏した年の夏。涼音は初めてパスポートを取得した。
〝落ち着いたら、遊びにおいでよ〟
 別れ際の達也の言葉を鵜呑みにしたつもりはなかったのに、夏休みが取れるや否や、迷わず飛行機に飛び乗っていた。パリ経由でマルセイユ空港へ。空港バスでエクス・アン・プロヴァンスへ向かったものの、ラウンジで鍛えた英語がほとんど通じず、大いに慌てた。若い人はともかく、フランスの人々は、日本人が思うほど英語が得意ではなかったのだ。
 エクス・アン・プロヴァンスのバス停に迎えにきてくれた達也の姿を見た瞬間、初めての海外渡航の緊張と、長旅の疲れもあって、泣き出しそうになってしまった。
 セザンヌの生まれ故郷として知られるエクス・アン・プロヴァンスも華やかで魅力的な町だったが、そこから車で一時間ちょっとの村、ルールマランに到着したとき、涼音はあまりの美しさに息を呑んだ。 
 広大なオリーブ畑。李(すもも)や葡萄(ぶどう)がたわわに実る豊かな果樹園。野原を紫色に染めるラベンダーの群生。十六世紀のルネッサンス様式を今に伝える、石造りの優美な古城……。
 南仏の明るい日差しの下、野原から渡ってくる風は、ほんのりとハーブの芳香をはらんでいた。
 マンハッタンでミシュランの二つ星を獲得したフレンチの名店を経営しているフランス系アメリカ人ブノワ・ゴーランは、この地に果樹園つきのパティスリーを持っている。桜山ホテルの特別イベントで、ゴーラン氏が東京に招かれたことが、達也が渡仏するきっかけとなった。
 イギリス人観光客も多く訪れるルールマランの村では、パリよりもマルセイユよりも英語が通じた。バカンスシーズンを迎えた村は、朗らかな活気と、人々の笑顔であふれていた。
 車で周囲を案内してくれる達也は、この村にもゴーランのパティスリーにもすっかり馴染んでいるようで、東京にいたときより、ずっとリラックスした様子だった。
 海外の時間は特別だ。ほかに知っている人はいないし、なにより、涼音には帰国のリミットがある。勿体をつけたり照れたりしている余裕はなく、互いの気持ちに正面から向き合うしかない。
 しかもそれが、光あふれる南仏プロヴァンスの夏(エテ)であるなら……。
 東京のホテルでは時間に追われ、ストイックに働いていた涼音も達也も、すっかり現地の人たちのおおらかさに感化され、二十一時を過ぎても日が沈まない明るい夏の日々を心ゆくまで楽しんだ。
 最初の年こそ、シャンブル・ドットと呼ばれるB(ベッド)&(アンド)B(ブレックファスト)の宿に泊まったが、次の年から、涼音は達也のアパルトマンに泊まるようになった。
 毎年、七月の繁忙期に長い休みを取るのは大変だったけれど、先輩の園田(そのだ)香織(かおり)や同僚の林(はやし)瑠璃(るり)がシフトを調整してくれた。
 南仏の夏は気温が三十度を超える日があっても、日本のように湿度が高くないので木陰に入れば過ごしやすい。達也がパティスリーで働いている間、涼音は果樹園の林檎の木の下にチェアを置いて、遠くの古城やラベンダーに染まる丘を眺めながら、ゆっくりと読書を楽しんだ。
 そして、夕刻には仕事を終える達也と連れ立ち、いつまでも明るい夏の宵の石畳を歩き、カフェや雑貨店をひやかした。たまには達也のお土産のピュイダムールを食べながら。
 ピュイダムールはパイ生地にカスタードクリームをたっぷりと詰め、表面をキャラメリゼしたフランスでは定番のお菓子だ。
 一口かじると、サクサクのパイ生地から、濃厚なクリームがとろりとあふれ出す。焼き立てが一番美味しいため作り置きはできないが、達也の働くパティスリーでは時間決めでピュイダムールを販売していて、いつも飛ぶように売れていた。運よく売れ残りが出ると、達也はそれを紙に包んで涼音へのお土産にしてくれた。
 ワイン、チーズ、田舎風のパテ、焼きたてのバゲット、オリーブオイルをたっぷりかけた新鮮な野菜や果物のサラダ……。
 アパルトマンで向き合って食べる夕食は、シンプルだけど、いつもとびきりの味がした。
 日本に帰ったら、一緒に自分たちのパティスリーを作らないか。
 三度目の夏、ベランダで食後のデザートワインを飲んでいるとき、達也から改まって切り出された。
 自分は最高のアントルメを作ることには自信があるけれど、接客はできない。接客のプロとして力を貸してはもらえないかと。
 涼音は、社内の接客コンテストで優勝したことがある。そのスキルを求められているのだろうと考えたとき、達也は首を横に振った。
 力を貸してほしいというのは違う。同じ道を歩きたいのだと、達也は言い直した。
〝涼音に出会わなかったら、今、俺はここにいない〟
 真っ直ぐな眼差しにとらえられ、涼音は胸が熱くなった。

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