「駅まで送ってくれた彼に私から握手を求めたのは、今考えると大胆な行為でしたが、すべてが自然な流れでした」

でもその時点では、2017年に他界された奥様、著名なドイツ文学者だった子安美知子さんとの結婚生活がどのようなものであったのかについて尋ねたいという取材者の気持ちが強かった。

実際に私は懇親会の席で夫婦に関する不躾な質問を投げかけたのですが、先生は「わが家の女王様だった人のことね」と言いながら、デジタルカメラを取り出して美知子さんの写真を見せてくれました。私は先生の優しい一面を見た気がして、微笑ましく受け止めました。

懇親会の帰り際、彼が「もっとお話ししましょう。今度はわが家へいらっしゃい」と誘ってくれました。駅まで送ってくれた彼に私から握手を求めたのは、今考えると大胆な行為でしたが、すべてが自然な流れでした。その時私は、コロナ禍以降、久しぶりに触れた手の温かさに感動を覚え、心が思わぬほうへと動くのを感じていたのです。

その日のうちにお礼のメールを送り、「ぜひ先生のお宅へ伺って、いろいろなお話を伺いたいです」と伝えると、すぐに「日程を決めましょう」と連絡がありました。そうして先生のお宅に伺い、語り合って最高に楽しい時間を過ごすことができたのです。

<後編につづく


松井久子さんが綴る大人の恋愛小説

>>最新刊<<最後のひと
75歳になって、86歳の人を好きになって何が悪いの?ベストセラー『疼くひと』のその先を描く希望の物語
疼くひと
70歳。女のままでいたい。たとえどんなに孤独でも――。今を生きる成熟世代から熱い共感を集めた話題作

ともに定価1760円(税込)・中央公論新社刊