両親と写る、幼少期の妃殿下と慶光さん(写真上)。父である慶久さんは慶喜の子として家督を相続、将来は首相候補と期待された貴族院議員だったという。

海外からわが子に宛てた葉書(写真下)には、「オトヽサマヨリキクコ ヨシミツ」とある。マメに妻子に送った手紙が数多く残されていることからもわかるように愛情深い人だったが、久美子さんの誕生を待たずに亡くなった

慶喜家の生の歴史を後世に伝えたい

山岸 私は今、叔父が遺した慶喜家の資料を松戸市戸定(とじょう)歴史館に寄贈するため、資料と向き合う日々を送っています。どれも歴史的に貴重なものばかりで、学芸員の方の助けを得ながら、とにかく勉強の毎日よ。

井手 母が常々言っていたことだけど、慶喜公が無血開城という大きな決断をなさって、日本は明治の世を迎えることができた。なにより大政奉還は、700年近く続いた武家社会の終焉であり、今の私たちの暮らしは、こうした過去の積み重ねと時代の大きな転換によって成り立っている。そのことを忘れてはいけない、とね。母にとって、「祖父・慶喜」は特別な存在だったんだと思う。

山岸 私は純おじちゃまより一世代下にあたるけど、自分に流れる慶喜家の精神は感じています。なにより、「愛」を受け継いでいる。私が管財人になったのは、然るべき形で慶喜家を閉じるにはどうすればよいか、を任されたということでもあるの。

井手 慶喜家のことを後世に伝えていく役目もね。

山岸 そういえば最近、祖母の手記も見つかったのよ。和子おばあちゃまは会津藩の9代目藩主松平容保の孫なので、会津戦争のあと、鶴ヶ城(若松城)にあったものはどうなったか、とか、ご自分が見聞きした幕末から明治にかけての思い出が綴られていました。慶喜家のお墓も私が管理しているけれど、300坪もあってとても個人で維持できるようなものではない。できれば史跡として遺せるよう、各方面にご協力をお願いしていくつもりです。

井手 僕にできることがあれば、なんでも手伝うよ。それにしても美喜ちゃんのエネルギーには頭が下がる。

山岸 祖父の慶光おじいちゃまも一時家を出て、その間、和子おばあちゃまがしっかり家を守っていらしたように、明治以降の慶喜家は女が頑張ってきた。だから私も慶喜家の最後の者として頑張りたい。この家にはダメ男がいるから。(笑)

井手 耳が痛い(笑)。長い年月をかけ母が頑張って書いた本からは、戦前の華族の暮らしぶりだけでなく、武家社会が終わって「徳川」が置かれた立場や軍人との結婚生活、皇族との交流の様子もわかるので、ぜひ読んでいただきたいです。そういえば美喜ちゃんと再会した日は、奇しくもおふくろの一周忌の前日だった。

山岸 ご先祖様が私たちを導いてくださったのかもしれないわね。