来日した老犬ニコ
詩人の伊藤比呂美さんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。夫が亡くなり、娘たちも独立、伊藤さんは20年暮らしたアメリカから日本に戻ってきました。熊本で、犬2匹(クレイマー、チトー)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。Webオリジナルでお送りする今回は「補聴器失くしました――秘剣妖怪返しの逆襲」。補聴器を新調することになった伊藤さん。今は「英語モード」の機能が装着されているそうで――。(文・写真=伊藤比呂美さん)

ベルリンで、何もかも終えて、森など歩いて、おみやげも買って(あたしはウエハースにヌテラをはさんであるようなドイツの駄菓子が大好き。チーズは安いし、干しキノコは旬である)、さあもうすぐ出発、タクシーも来る、ほんとにお世話になりましたなどと言ってたときに、は、と気づいた。

補聴器がない。補聴器は2つとも、前夜耳をそろえてどこかに置いたか入れたかした。その朝早く起きて、補聴器のことなんて考えずに旅の支度を調えていたのである。あわてて家じゅう(友人の家に泊まっていた)探し回り、ごみ箱をひっくり返したりじゅうたんをふるったりもしたが、出てこない。

妖怪物隠しに遭ったのだった。別名を鍵喰らいとも言う。熊本でよく遭うやつだ。ベルリンにもいるとは思わなかった。

補聴器は6年前に買った。

あの頃は早稲田で教えていたから、週の半分は学生に囲まれ、前から後ろから斜め横から、どこから誰がどんな発音で何を話しかけてくるかわからなかった。2018年、あたしは62歳、そんな状況で後ろから何か言われ、聞き取れず、え? と聞き返したら、大きな声を出された。その途端に、自分にもあるなんて気づいてなかった尊厳というものがもみくちゃの粉々になったのを知り、あわてて補聴器を買いに走ったのだ。当時はお給料を月々もらう生活だったので、分割払いでなんとか払った。片耳50万、両耳100万。一生モンのつもりだった。

あれから6年、生活も変わった。

まずあたしは、早稲田を卒業、違った、退職して、あんなふうに人中にいることはなくなった。今はたいてい熊本で、犬猫と、山に行き、川に行き、おじいさんおばあさんみたいな生活をしている。桃を見つけるのももうすぐかもしれない。

しかしときどき、どこかに行く。東京とかベルリンとかカリフォルニアとか。そして人と話す。