老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
「婚姻届なんだけど」
サーモンをバターソースに絡めながら、涼音が切り出した。
達也の本籍は出身地の茨城にあるため、涼音の本籍地の役所に婚姻届を出す予定になっていた。
「そのとき、達也さんの戸籍謄本が必要になるみたい」
「分かった。手配しとく」
よく結婚することを「入籍」というが、それは正しくはない。結婚と同時に男性の家の戸籍に女性が入っていた明治民法は戦後に改正され、現在、法的な結婚とは、男性と女性が新たな戸籍を「作る」ことを指す。
達也と一緒に、新しい自分たちの生活を作る。
この制度を、涼音はそう理解していた。
それは喜ばしく、とてもすてきなことに思えた。
当面、式は挙げずに開店資金に充てると、お互い決めていた。ただ、近々両家の顔合わせはしないといけない。
「茨城から、親父とおふくろを呼ばないとな」
あらかた料理を食べ終えた達也が立ち上がる。
「お店は私が探しておこうか」
「助かるよ。そんな格式ばったところじゃなくていいから」
「浅草の牛すきとかは?」
「親父が喜びそうだな」
言いながら、達也はキッチンに向かった。
「ゆっくり食べてなよ。今日は特別なデザートがあるから」
その言葉に胸を躍らせつつ、涼音はグラスフェッドバターのオ・ブールを味わう。オ・ブールはバゲットと合わせても最高だが、炊きたてのご飯との相性もまた格別だった。魚介のエキスが沁みたバターがつやつやとした米粒に絡み、箸がとまらない。
茶碗と皿が空になったとき、「はあ」と、満足の息をついた。
太っちゃうかな……。
一瞬心によぎった懸念が、キッチンから漂ってきた甘い匂いに吹き飛ばされる。
戻ってきた達也が手にした皿の上で、焼きたてのピュイダムールがまだちりちりと音をたてていた。
「わあ、ピュイダムール!」
思い出のお菓子の登場に、涼音は顔を輝かせる。
「私、紅茶淹れるね」
涼音は達也と入れ違いにキッチンに向かった。
ラウンジ仕込みの手順で丁寧且つ迅速にアールグレイを入れる。キッチンに、華やかなベルガモットの香りが立ち込めた。
ティーカップを盆に載せてリビングに戻り、達也と向かい合って食後のデザートを楽しむ。贅沢で最高の時間の始まりだ。
ピュイダムールを食べるのに、気取った作法は必要ない。パティスリーの屋台で焼きたてを食べるパリっ子たちのように、紙に包んで手で食べるのが一番だ。
サクサクのパイ生地に歯を立てると、熱々のカスタードクリームがとろりと溶け出す。火傷をしないように気をつけながら、ゆっくりと濃厚なクリームを味わった。
カスタードクリームは、フランス語で菓子職人のクリーム(クレーム・パティシエール)と呼ばれる。
シュー・ア・ラ・クレーム、エクレール、クレームブリュレ……。このクリームで、代表的なフランス菓子の美味しさのすべてが決まると言っても過言ではない。
涼音は、達也の作るカスタードクリームが大好きだった。
くどさの残らない上品な甘さ。卵のこくとバニラビーンズのふくよかな香り。ほんのり残るラム酒の後味。
何口食べても飽きがこない上質な味と、心地よく滑らかな舌触り。
どこを取っても満点だ。
「幸せ……」
思わず心の声がこぼれる。
眼を閉じて、涼音はピュイダムールを味わった。目蓋の裏側に、初夏の南仏のオリーブ畑や果樹園の風景が広がる。
「涼音、手を出して」
達也の声に眼をあけると、四角い小箱が差し出された。
胸の奥が小さく跳ねる。
ゆっくりと小箱を開けば、深い湖を思わせる紺碧のブルーサファイアの指輪が現れた。サファイアは、九月生まれの涼音の誕生石だ。
「結納とかしないから、これだけだけど」
達也が台座から指輪を取り出し、涼音の左手にそっと触れる。自分の薬指に指輪がはめられるのを、涼音は黙って見ていた。胸が一杯で、なにかを口にすることができなかった。
「……指輪とか、よかったのに。これからお金もかかるんだし」
ようやく押し出した声がかすれる。
「気持ちだから」
達也が少し真面目な顔になった。
「今後とも、よろしく」
その言葉に頷くと、自然と涙が頬を伝った。
ピュイダムール。
思い出のお菓子のフランス語の意味は、愛の泉。パイ生地の泉から、甘い愛があふれ出す。
食べかけのピュイダムールを挟み、涼音と達也はいつまでも見つめ合っていた。