大坂冬の陣

十一月半ばには、これを二〇万ともいう徳川方の諸大名が囲み、十九日からいわゆる大坂冬の陣が始まった。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

大坂方の基本戦略は籠城戦であるが、惣構の南側は空堀で手薄だとして、真田信繁は「真田丸」とよばれた出丸(砦)を築いた。功を焦った徳川方がこれを攻めたところ、鉄炮の威力などでさんざんな敗北を喫した。

大坂城の堅牢さを十分承知していた家康はあえて力攻めを避け、「石火矢」とよばれた大砲で本丸や天守閣への砲撃を強化するとともに、他方で和睦交渉を進めた。

十二月十九日になってようやく和睦同意となったが、その条件や誓約を諸史料からまとめると、

・本丸を除き、二の丸・三の丸などはすべて破却すること

・淀殿は人質にならなくてよいが、大野治長・織田有楽から人質を出すこと

・秀頼とその知行地については保障すること

・秀頼が大坂城を立ち退くというのであれば、どこの国でも望み次第とすること

・籠城した牢人衆には咎め立てをしないこと

などであった。

こうして、堀の埋め立てなどは秀忠に任せ、家康は十二月二十五日に二条城に凱旋し、翌慶長二十年(七月に元和と改元、一六一五)正月三日に駿府へと下っていった。