豊臣氏の滅亡

三月になると所司代板倉勝重らから、大坂方の不穏な動きが伝えられた。堀や柵の修復を始めており、兵粮米や木材を運び込み、牢人たちは冬の陣当時よりもかえって多いような状況だ、ということであった。

この間、家康は秀頼に対し(1)大坂城を明け渡し、大和か伊勢辺りに国替えをするか、(2)牢人たちをすべて召し放つか、いずれかの対応をとるように迫っていた。

四月五日に大野治長の使者がやってきて、国替えについてはご容赦をという返答であった。こうして再戦は必至となり、家康は十八日に二条城に入り、秀忠も二十一日に伏見城に入った。

二十四日に常高院(淀殿の妹、初)らに三ヵ条の書付を託して大坂へ帰らせたが、これが最後通牒となった。大和郡山への国替えか、牢人衆の召し放ちか、ということであったが、大坂方にそれを受け入れる余地はなかった。

こうして大坂夏の陣となった。

大坂方では、もはや裸城同然の大坂城に立て籠ることはできず、否応なく城外へ打って出て、五月六日から七日にかけて各地で激戦となった。

六日には後藤基次や木村重成らが討死し、最後の激戦となった七日には真田信繁が家康の本陣にまで迫ったことはよく知られているが、多勢に無勢でやはり討死してしまった。

落城直前に大野治長が千姫を脱出させて家康のもとに送り、秀頼と淀殿の助命を願ったが、もはや事態は如何ともしがたく、翌五月八日に秀頼・淀殿らが自害し、豊臣氏は滅亡したのであった。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。