笠置シヅ子とその楽団
この頃、引く手あまたのシヅ子には、東宝古川ロッパ一座はじめ、あちこちから声がかかった。
前年の秋、東宝からの引き抜き騒動で、頑として移籍を許さなかった松竹常務の大谷博は、手のひらを返すように「独立しないか」と持ちかけてきた。
笠置の自伝「歌う自画像 私のブギウギ傳記」(48年・北斗出版社)によると、引き抜き騒動の際に、東宝と交わした契約書は、その後松竹から再三の撤回要求をしていたが、東宝の東京宝塚劇場社長・秦豊吉はそれを渡すことなく「この解散でウヤムヤとなり、今なお東宝にある筈です」とシヅ子が語っている。
しかしこのとき、シヅ子は服部良一の提案もあり、歌手として独立する決意を固めて「笠置シヅ子とその楽団」を結成することにした。その準備もあって、最後の正月公演は休演していたのである。
バンド・リーダーはトロンボーン奏者で、日本を代表するジャズ・プレイヤー・中澤壽士。中澤は1938(昭和13)年4月、SGDの旗揚げ公演「スヰング・アルバム」に参加して、服部良一と出会い、共に笠置シヅ子をサウンド面で支えてきた。
中澤はテイチクのレコーディング・オーケストラで、ディック・ミネをはじめテイチク・ジャズの全盛時代を、アレンジや演奏で支えてきただけに「笠置シヅ子とその楽団」には一流メンバーを揃えた。