秀康と秀忠について
こうして見ていくと、よく分からないのが、秀康と秀忠です。徳川家康は年少の秀忠を後継者として育て、秀康とは親子の対面もなかなか果たそうとしなかった。これをどう解釈すればよいのか?
たとえば歴史学者・黒田基樹さんは秀康の母は正式な側室ではなかったので、秀康も子どもとして認知されなかった、と説かれます。ただ「正式な正室」は分かりますが、「正式な側室」というのはどうか。
正室は婚姻として周囲に認識される必要がありますので、それなりの儀式が必要になるでしょうが、権力者が夜を共にしたいと考えた女性と、その都度正式な手順のようなものを用意していたのか…。
当時は「家」の繁栄のために、子どもは多いほどよい、という大雑把な時代です。だから身分と財力のある人は複数の女性と夜を過ごすわけですし、女性の側もある程度の理解があったと言えるでしょう。ですので「私をお求めになるのであれば、側室にする、とまず約束してください。特におかた様(正室)の説得は必須です」なんて要求するのは考えられないでしょうし。
もし側室にする決定権を正室が持っていたとすると、夫が他の女性と仲良くするのを自分が決めるなんて普通はイヤでしょうから、側室なんて存在がそもそもなくなってしまいそうです。
大河ドラマ評論家・渡辺大門さんは、秀忠の生母の西鄕局は、三河守護代の家、西郷氏の出身であって、有力家のお嬢さんである。母の出自ゆえに、秀忠は秀康を差し置いて後継者になったと説かれます。
こちらは・・・あり得そう。
ただし、家康が室町時代的な格式を尊重したのだろうか、という疑問は残ります。西鄕家は秀忠が生まれる前にも後にも、さほどの存在感を示していませんし、家康は秀吉のようには「お姫さま」好みではない。実力を失った守護代家を重んじるようにも思えない。