深作 僕が初めて親父の仕事を意識したのは5歳の頃、『柳生一族の陰謀』(78年)の撮影現場に遊びに行った時ですね。家で本ばかり読んでいる父とはまったく違って、大きな声を張り上げて駆けずり回っているし、スタッフも役者さんたちも自分の役割に一所懸命取り組んでいた。
大の大人が真剣な顔をして遊ぶ姿が本当に楽しそうで。それで「僕も映画監督になる!」と、撮影所の食堂で父に宣言しました。父は「一生を棒に振るぞ」と笑ってましたけど。
五社 5歳で監督宣言! 私なんて初めて父の撮影現場に行ったのは、20代で『週刊現代』の記者になってからですよ。
深作 親父も五社さんも共にアウトローを描く監督で、生き方も世間的にはアウトローのイメージが強かったと思うんです。ただ親父は、結婚当初は女優だった母(中原早苗さん)のほうが売れていたので、母に食わしてもらってた。
世田谷の家も母方のものでしたし。のちに撮った「必殺」シリーズ(72年~)の、まさに中村主水(もんど)状態。家では嫁と義母に怒られて、でも仕事に行くとカッコいい、みたいな。
五社 うちは深作家とは真逆で、とにかく父は亭主関白。母は三つ指ついて「おかえりなさい」と父にかしずく感じ。たくさんの来客に文句も言わず、何十人分もの食事を用意したり、父に尽くしていました。一家団欒からはほど遠く、友達の家で夕飯をご馳走になった時、すごく驚いた。「家族で食卓を囲んでご飯を食べるんだ!」と。
深作 でも、一人っ子だから父親からはかわいがられたでしょ。
五社 そうですね。一緒に暮らしていたとはいえ父は多忙でしたから、幼い頃は特に愛情表現過多で。会うとギューッと抱きしめて頬を擦り寄せてくる。
深作 僕は親父が42歳の時の子だからかわいがられましたけど、京都と東京で離れちゃったから、あまり一緒にいた記憶がなくて。ただ、父の職場が東映だったので、夏休みには「東映まんがまつり」をやっていた丸の内東映に放り込まれて(笑)、その間に父は上の階にある東映本社で打ち合わせ。
映画の後はご飯に連れて行ってくれるんだけど、それが毎回飲み屋。小学生のくせに、僕も日本酒やビールを飲んでましたよ。うん、日本酒のほうが甘くておいしいわ、って。