誰もが“正しい”母親になれるわけじゃない

悪阻のせいで、長時間文字を追うことさえままならない。しばらく経つと、激しい船酔いのような吐き気が襲ってくる。そうなるたびに休憩を挟み、通常の何倍もの時間をかけて物語を読み進めた。

産婦人科の主治医は、「あまり思い悩まないでね」と言った。子の父である元夫は、弱音をこぼした私に「見損なった」と言った。両親には、はなから頼っていない。だが、義母からは体を気遣うメールが届いた。その文面からは、元夫から何らかの相談があっただろうことが読み取れた。

「母親になれば誰だって強くなれるから、心配することないのよ」

反射的に、嘘だ、と思った。私の母は、弱い人だった。行動と言動に滲み出る圧力は、彼女の弱さの証であった。母親になれば誰だって強くなれる。それならなぜ、この世界から虐待は無くならないんだ。そう思うと、悔しさで口元が震えた。

普通の家庭で育った人と、そうではない人。両者の間に流れる川の深さに、時折絶望してしまう。信じられるものの多さが、あまりに違いすぎる。でも私は、そちら側に行きたかった。私は無理でも、せめて我が子だけはそちら側に行かせたかった。

世界を信じられずに歩む人生は、思いのほか苦しい。こんな思いは、引き継いではならない。だが、断ち切る術がどうしてもわからなかった。

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