“不安でいてもいいのだ”と思えた
“一つのこと気にしだしたら他のことが見えんようになる奴のことを、アホ、いうねんで”
何度読み返しても、園主の言葉には、ぐうの音も出ない。自分のことを言われているのかと錯覚するほど、あれやこれやが突き刺さる。対面で言われたらすんなり飲み込めない言葉も、本の登場人物の言葉なら消化できるから不思議なものだ。
私は「ちゃんとした母親になれるかどうか」を気にしていた。「虐待が連鎖したらどうしよう」と不安がっていた。その結果、「産まないほうがこの子のためではないか」と思い込んでいた。不安要素が1つでもあると、ゼロに戻したがる。ゼロ百思考は虐待被害の後遺症だと、医者に言われたことを思い出した。
結婚、妊娠、出産。本来であれば喜ぶべき人生の一大イベントなのに、どうして私はこんなにもぐったりしているのだろう。我が子に会いたい気持ちはゼロではないのに、なぜ素直に手放しで喜べないのだろう。自分が欠陥だらけの人間に思えて、やるせなさばかりが募る。だが、物語を読み進めた先で、瞳子さんのストレートな台詞に平手打ちを食らった。
“女にだっていろいろいるわよ。妊娠したとわかった時に喜ぶ女もいれば、そうでない女だって当然いるのよ。産むことを選ぶ女もいれば、あえて産まないことを選ぶ女もいる。産めない体であることに苦しんでいる女もいれば、べつだん気にならない女だっているのよ。当たり前でしょ、そんなこと”
「当たり前でしょ」ーーその台詞を何度も反芻するうちに、すべてを許された気がした。自分が抱える葛藤や不安は、人が持つ要素の“いろいろ”の中に含まれていて、それは人間失格の烙印ではなくて、ただの一個人の感情で、自分の経験や環境を鑑みれば、むしろ当然の結果に思えた。
不安でいてもいいのだ。そう思えた途端、心がスッと楽になった。