両親が抱えていた心の闇

私の父は、アルコール依存症を患っていた。どうにか会社には行っていたものの、時には朝から飲酒した状態で出勤する始末であった。父の父、私の祖父に当たる人もまた、アルコール依存症だった。祖父は私が1歳の頃に他界したため、記憶にはない。だが、父は悪酔いするたびに自分の不遇を吐露していた。

飲み屋で酔い潰れた父親を迎えに行っては、担いで帰る日々。当時学生だった父に対し、周囲の大人は、酔い潰れて迷惑をかけている本人ではなく、まだ子どもだった父を責めた。この時、父を責めるのではなく手を貸してくれる大人がいたら。「迷惑なんだよ!」と怒鳴るのではなく、「大丈夫か?」と声をかけてくれる人がいたなら、私の未来も少しは変わっていたのかもしれない。

母もまた、平穏とは言い難い幼少期を生きてきた。母の実家は貧しく、産後も祖母は農業の手を休める暇がなかった。祖父は兼業農家で平日昼間は家を留守にしており、祖母には頼れる親族もいなかった。そのため、赤ん坊だった母は、家の柱に紐で縛られた状態で放置されていた。授乳時間になると祖母が戻り、授乳をしてオムツを替えて畑に戻る。その繰り返しの日々にあって、母は「泣かない赤ん坊」になった。いわゆるサイレントベビーである。

「虐待は連鎖する」という言葉が嫌いだ。連鎖させまいと懸命に踏ん張る人たちの存在を、この言葉は置き去りにする。だが、悲しいことに私の両親は、連鎖の縛りから逃れられなかった。

両親からの長年にわたる虐待被害によって、私は解離性同一性障害を患った。40歳を過ぎた現在も、何らかの負荷がかかると人格交代やフラッシュバックの発作が起こる。両親を許せる日は、きっとこない。それでも、まだ子どもだった彼らを助けてほしかったと、そう思う気持ちは否定できない。

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