ビリー・バンバンとして54年。3歳年上の兄・菅原孝さん(右)と、菅原進さん。「僕らの癒やし系のハーモニーが、時代を超えて皆さんに愛されていて嬉しいです」と進さん(写真提供:ハブ・マーシー)

解散後は酒浸りに。救ってくれた母の言葉

在学中の69年「白いブランコ」でデビュー。72年「さよならをするために」が80万枚を売り上げ、『NHK紅白歌合戦』にも出場。フォーク・ブームに乗り人気を博した。76年に解散し、孝さんと進さんは別々の道を歩む。

――デビューして数年間は、雨で中止の日以外、365日コンサートでした。僕らは学生だったし、マネージャーもアマチュアの頃からの仲間。九州でコンサートをした翌日に北海道、なんて無茶なスケジュールを入れちゃうから夜行列車で移動しましたよ。1日に学園祭3つ掛け持ちはあたりまえ。若さと体力があったから忙しいなかでも楽しかった。

兄(以下・孝)とはもともと音楽の趣味や考え方が違っていました。僕は音楽一筋。兄は学問も好きで、ほかの仕事をしても成功していたと思う。毎日一緒にいると、ちょっとした違和感が徐々に膨らんでいき、「解散しよう」と。

ただ、解散の〈真相〉に関してはどうもお互いの見解が食い違っていて。兄は「弟が『アメリカに進出したい』と言うから解散した」と。僕は「いや、そんなことは言ってない!」。これ、今でもモメています。(笑)

解散後、兄は語りの才能を生かして、司会業などタレントとして活躍。一方、音楽にこだわる僕に仕事は来ず、友だちと酒を飲んでばかりいた。音楽の勉強のためアメリカ行きも考えたけれど結局実行せず。だらしないよね。今思うと海外に行ってたら、ビリー・バンバンの再結成もなかったでしょう。行かなくてよかったのかなとも思う。

当時は、そんな状態だから夫婦関係もよくありませんでした。ある日、妻に決定的なことを言われて。「もう音楽はやめてほかの仕事をしたら」と。音楽しかない僕には酷な言葉です。今なら幼子を抱えて不安だった妻の気持ちもわかりますが、結局、それがきっかけで離婚しました。

その頃は喘息の発作が出て歌うこともできず、どん底の日々。そこに手を差し伸べてくれたのが兄、正しくは、おふくろです。「進が喘息で苦しんでいるから、孝、見に行って助けてあげて」と母が兄に伝えたのです。