曾祖父と賀茂河畔の邸宅
紫式部の兄・惟規は子どもの時分から、父親に漢籍を教えられていました。彼らの家では、学問で身を立てていかなければ、出世はおぼつかなかったのです。でもそれは、男子(おのこ)の話であって、「女子(おなご)は漢籍を学ぶものではない」というのが平安時代の常識でした。
ところが、兄のすぐそばで、父の教えを聞いているうちに、妹の式部のほうが、漢籍のイロハを覚えてしまう。やがては、かなりの「漢学通」になっていきます。
「ああ、娘よ。おまえが息子であったらなぁ」
それが父・為時の嘆きであり、口癖であったようです。
ここで、紫式部の父方の家系について、簡単に触れておきます。
何となれば、紫式部が育った家の環境は、彼女の父方の祖父―曾祖父の力が大きく影響しているからです。
紫式部の曾祖父・藤原兼輔(かねすけ)は、文人として名を残した人で、従三位中納言(じゅさんみちゅうなごん)の位まで出世し、「三十六歌仙の一人」にあげられるほどの有名な歌人でした。
漢学・和歌の両方に長(た)けていて、当時の醍醐(だいご)天皇の信任すこぶる篤(あつ)く、「『聖徳太子伝略』上下巻をまとめあげた」と言われています。
その兼輔は京極(きょうごく)賀茂川の河畔に邸宅をつくり、邸内に賀茂川の水を引きこんで、四季豊かな風情のなかで暮らしていたそうです。当時の人びとは彼のことを「堤中納言(つつみちゅうなごん)」とよび、尊敬の眼差しを向けていました。
紀貫之や大江千里(おおえのちさと)など当代きっての歌人たちが、兼輔の邸宅や山荘につどい、歌会など、雅(みやび)な交流をくりひろげました。
兼輔は、彼ら歌人たちのパトロンだったのです。
さらに兼輔の娘・桑子(そうし)は、更衣(こうい)と称される女官として、醍醐帝のそば近くに仕えていました。
更衣とは、天皇夫人である皇后・中宮(ちゅうぐう)・女御(にょうご)より下位で、その名のとおり、「帝(みかど)の衣裳をととのえ、身支度を手伝うのが勤め」ですが、帝の眼にとまることも多く、気に入られた場合は閨(ねや)によばれ、側室のような扱いを受けたのです。
この「更衣」という役職名は、『源氏物語』序盤の重要なキーワードにもなりますので、ぜひ覚えておいてください。