少女から女へ

ところが、ここで一つの「出逢い」があるのです。

姉の死後、紫式部は一人の友を得ます。その人は妹を亡くした女性でした。

ふたりの手紙の交換のなかで、紫式部は表書きに「姉君へ」と記し、相手は紫式部への手紙の表書きに「中の君(妹)へ」と記していたのです。

おたがいに失った人の代わりを求め、慰めあったのでしょう。

二人の間には、いくつかの「相聞歌(そうもんか)」が残されています。

紫式部は二、三歳のころに母親を亡くし、その3年後に祖母を亡くしていますが、母との思い出は、ほとんどなかったようです(写真提供:Photo AC)

相聞歌と言えば、ふつう、男女間のものですが、まれに男と男、女と女―同性同士の文通というか、歌の交換があり、私などはやはり、そこに一種の「同性愛」的なものを感じてしまいます。

ここで、「中の君」こと紫式部と「姉君」との歌のやりとりを少し、見てみましょう。

※以下『紫式部集』の原文は『紫式部集』(南波浩校注/岩波書店)に拠る。

まずは相手の女友達「姉君」からのものです。

露ふかく おく山里の もみぢばに 通へる袖の 色を見せばや

それに応えての紫式部の「返歌」。

嵐吹く 遠山里の もみぢ葉は 露もとまらん ことのかたさよ

さりげない歌ではあるけれど、ここには、そこはかとなく惹かれあうふたりの姿、雰囲気が見てとれます。

ただし、何度か現実に会ってはいるようですが、たぶん、肌の触れ合い、といったものはなかったでしょう。

この二人の関係は、何やら、亡きペギー葉山の唄った『学生時代』の歌詞を思い出させます。

ミッション系の女学校が舞台となっているのでしょう。(付属の教会の)ろうそくの灯火に輝く十字架を見つめて、手を組みながら、うつむいている友人。

その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでも変わらずにと 願った幸せ

そう、のちに「女房づとめ」をしたときにも、「ちょっと怪しい関係かな」と思わせる女性が登場しますが、レズビアン的な傾向が紫式部にはあり、それが彼女の婚期を遅らせた理由の一つかとも考えられます。

当時は、藤原道長の娘・彰子(しょうし)のように、12歳で入内(じゅだい)(帝のもとに嫁(とつ)ぐ)した女性もいたくらいで、結婚適齢期は十六、七くらいでしょう。

紫式部はこのとき20代半ばで、いわば「行き遅れ」てはいたのです。