適材適所の人事

ついでに、触れておきましょう。

律令制の施行細則について書かれた「延喜式(えんぎしき)」によれば、当時の日本の国々は広さ(面積)や人口、政治力、経済力などで、「大国、上国、中国、下国」の四つの等級(格)に分けられていました。

『紫式部の言い分』(著:岳真也/ワニブックス【PLUS】新書)

大国は第一等の国で、大和(やまと)・常陸(ひたち)・越前など十余ヵ国。上国は第二等で、山城(やましろ)・摂津(せっつ)など三十余ヵ国。中国は第三等で、安房(あわ)・若狭(わかさ)など十余ヵ国。下国は第四等で、伊賀(いが)・淡路・壱岐(いき)など9ヵ国です。

つまり当初、為時が国司に任命された淡路は最下級の国(下国)で、のちに変えられた越前は、上級の「大国」というわけです。

そのころ、宋の国から商船に乗った唐人七十余人が若狭(福井県南部)の湊(みなと)に到着していました。じつは、一条帝から話があったとき、漢籍に秀で、唐国(からくに)の事情にも詳しい為時を、故意に道長がえらんだのだ、と私は思います。

越前守となった為時は、さっそく宋の商船を越前の湊に移し、彼らを厚遇しました。さらに国司の館を訪問した唐人に、為時は漢詩二篇を贈ったのです。

漢語漢籍に熟達した為時だからこそ、この事態に対処できたと言えるでしょう。

為時を越前守に抜擢した藤原道長は、「適材適所の人事をおこなった」ということで、たいそう名をあげたそうです。