なぜ紫式部までが越前へ行くのか
さて、父に付きしたがって、越前に向かった紫式部は、20代も半ばをすぎていました。
このころ、女性の結婚適齢期は十六、七歳でしたから、紫式部は若くはない。「婚期を逸(いっ)した」女性といえます。
それなのに為時は、そういう娘(紫式部)をなぜ、わざわざ自分の任地の越前へ伴っていったのでしょうか。
冒頭部に、「父の身のまわりの世話をする必要」と書きましたが、亡くなった母以外にも、為時には数人の妻(愛人)がいました。でも、同じ屋敷に暮らしていたのは、紫式部の母だけだったのです。
当時は一夫多妻制で、基本的には夫が妻のもとをおとずれる「通い婚」です。まれに、「一妻多夫」のごとき場合もあり、紫式部の同僚・和泉(いずみ)式部がそうです。
ちなみに、正妻というのは、「所顕(ところあらわし)(結婚披露)をきちんとした妻のこと」で、『源氏物語』に主役級で登場する光源氏最愛の女性、紫の上と光源氏とは、その「所顕」をしておりません。
それでも紫の上は、源氏の建てた屋敷にずっと住んでいました。
じっさい、通い婚ではなく、同居していた夫婦も少なからずいたようです。