文学の中で描かれた、死と性の隣接

これもなかなか真実を突いている。死は自分の秘めたものだ。生の本質にかかわるがゆえに、口に出すのが恥ずかしい、本能的に口にするのを避けてしまう事柄なのだ。そのためだろう、死について語る時、しばしば比喩が用いられる。

先に引いたラ・ロシュフーコーの言葉も、このゾラの小説の一節も死を太陽や性器にたとえて語っている。それほどまでに単独では語りづらい事柄なのだ。

ところで、この文章の中で、ゾラが死と性の隣接についてほのめかしていることも興味深い。フランスの異端の哲学者にしてエロスの小説の作家でもあるジョルジュ・バタイユは、その著書『エロティシズム』の序文で、「エロティシズムとは死におけるまで生を称えることなのだ」と書く。

「死におけるまで jusque dans la mort」とは、「死のただなかにおけるまで」「死の中まで」ということだろう。最晩年の著書『エロスの涙』では、バタイユは性交中のオルガスムをフランスの俗語で「小さな死」と呼ぶことに触れながら、性のオルガスムを「死の予感」とみなしている。