あっけらかんと自分の死について語っていた妻
確かに、オルガスムに達する時、「死ぬ……」と口走る人もいるという。生の中で死を予感するのがセックスだった。そして、セックスも死も人間社会では公に口にするのははばかられることとされている。
エロスとタナトスは隣接している。エロスに魅せられるように死に魅せられる人がいる。バタイユも小説に書いているが、死者の前での性交はある種の小説の題材でもあるようだ。
ただ、これらのことについても妻の死生観には当てはまらないような気がする。
妻は卑猥なことを口にすることはなかったが、死については語ることをタブーにはしなかった。自分の死についてもあっけらかんと語っていた。家族がそれについて避けても、妻は平気で語っていた。
妻に関しては、太陽は凝視できないにせよ、自分の死を凝視していたのかもしれない。
※本稿は『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。
『凡人のためのあっぱれな最期』(著:樋口裕一/幻冬舎)
嘆かず、恨まず、泰然と
「小さき人」として生き、死んでいきたい
61歳、癌で先に逝った妻。
身近な死に、何を学ぶのか?
妻が癌で逝った。
61歳、1年あまりの闘病生活ののちの早すぎる死だった。
家族が悲しみ、うろたえるなか、妻は、嘆かず恨まず、泰然と死んでいった。
それはまさに「あっぱれな最期」だった。
決して人格者でもなかった妻が、なぜそのような最期を迎えられたのか。
そんな疑問を抱いていた私が出会ったのは、
「菫ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句だった。
そうか、妻は生涯「小さき人」であろうとしたのか――。
妻の人生を振り返りながら古今東西の文学・哲学を渉猟し、よく死ぬための生き方を問う、珠玉の一冊。