今の日本に見つけることがいかに困難か

この映画で「理想のひと」として描かれる平山以外の人物を見てみるがいい。平山の丁寧な職務態度を揶揄し、キャバクラ嬢をモノにすることしか考えない若者。勿論彼にも盲目の子どもに優しかったり、愛すべきところもあるのだが、総じて褒められた姿ではない。

平山が迷子の子どもの手を取って親を探していると母親が現れ、礼も言わずに子どもを奪い返す。そしてまるで子どもが汚いものを触ったかのように、その手を除菌アルコールティッシュで拭いて去った。平山の妹もあからさまに平山の仕事を卑しいもののように見下す。平山は「聖なるもの」であると同時に「穢れ」として描かれる。

勿論愛すべき人物も沢山現れる。小さな古本屋で自分の居場所に満足しているおしゃべりな店員。平山の姪は権威主義的な母親に反抗して家出したらしく、平山の仕事を進んで手伝う。物語の時々に出現する田中泯演ずる浮浪者は、何か神聖なるものを思わせる。

ヴェンダースは私たち日本人以上に「かつて日本にあった日本的精神の美」「仏教や禅の価値観、美意識」に憧れ、学んだのだろう。しかしそれを今の日本に見つけることがいかに困難かを、この映画で描こうとしたのではないか。

だから、ドアがオートロックのようでも気にせず、自販機に直行することに拘り、筋が破綻していても気にしない。それよりもカセットテープを巻きなおしたり、新聞紙で畳を掃除したり、そういう「細部」に徹底的に拘った。「そういう不便さの中に、人生の大切な物や美が宿る」と言いたげに。