良質な石炭を得るための壁 ガス突出を高等技術で克服

1891(明治24)年には製塩工場の建設とそれに伴う蒸留水機が設置され、飲料水配給体制も万全に。さらには、島の拡張工事などによって炭鉱としての基礎が整えられていく。この明治中期の島内には中央部に3〜4階建ての木造住宅が数棟、東部に採炭作業場、西部に住宅、北部には1893(明治26)年に創立された三菱社立尋常小学校などの公共施設や娯楽施設があった。

1895(明治28)年に第二竪坑が、翌1896(明治29)年には旧第三竪坑が完成。当初、三菱は採炭が盛んだった高島の支坑として端島を買収したが、相次ぐ竪坑の開削により、1897(明治30)年には、ついに高島の出炭量を上回ることになる。

『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(編著:風来堂、著:宮台真司・生駒明・橋本明・深笛義也・渡辺拓也/清談社Publico)

端島で産出される石炭は国内トップクラスの炭質であることから、現在の福岡県北九州市にある八幡(やはた)製鉄所に製鉄用原料炭として主に供給されていた。

一方で、石炭の微粉化率が大きいため、酸素を吸収しやすく、自然発火しやすかったこと、また、ガス湧出量が多いため、ガス突出(粉炭が高圧ガスとともに噴き出す現象)も起こりやすかったことから、採炭には高度な技術が必要とされた。

採炭は個人の技術によるところが大きいため、給料のなかには1〜10級まで定められた技能級手当が含まれた。1年ごとに等級の査定を行うことで、技能の向上が図られていた。