家賃、光熱費は合わせて10円 最新家電もそろう端島の暮らし

炭鉱での過酷な労働とは対照的に豊かな生活を送っていた端島の人々。鉱員の給料は高額だったうえ、住宅も基本的には社宅や寮という考え方だったため、家賃は無料だった。さらに、水道光熱費は合わせて10円(1959[昭和34]年当時)。

当時「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の普及率は軍艦島ではほぼ100%だった(写真:長崎県観光連盟)

1950年代後半の6畳一間、共同トイレ風呂なしのアパートの国内の平均賃料が3000円ほどだったことを考えると、きわめて恵まれた環境だったといえるだろう。また、特異な環境から、住民同士の助け合いは必須で、島全体がまるでひとつの家族のように仲がよかったという。

1950年代の家電ブームの際も島内ではいち早く電化が進んだ。1957(昭和32)年当時、「家電三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の全国の普及率は、それぞれ7.8%、20.2%、2.8%だったのに対し、島内では1958(昭和33)年にはすでに100%電化生活だったと当時の『朝日(あさひ)新聞』が伝えている。

現在もアパートの室内には足つきの白黒テレビや一槽式電気洗濯機などがそのまま残されているという。

しかしながら、風呂とトイレはいつまでも共同だった。川や池、湧き水、貯水池がなかった端島にとって「水」の問題は切実だったからだ。島内では鉱長住宅などごく一部の住宅にのみ内風呂がついており、そのほかの島民のほとんどは閉山まで共同浴場を利用していた。

1957(昭和32)年に海底水道が開通するまでは水は給水船で島外から運んでいたため、渇水時や時化(しけ)の際には海水が使われたが、基本的には真水を沸かして使われていた。

仕事を終えた鉱員は炭鉱風呂といわれる鉱員専用の風呂場へ。まずは作業着のまま「第一槽」に入って炭を洗い落とし、「第二槽」で体を洗うという二段構えだ。第一槽は言わずもがな常に炭で真っ黒だったという。

一般的な共同浴場は61号棟の地下にあり、大人が20人ほど入れる大きさの「下風呂」や、窓があって明るかったという「上風呂」など数カ所。使用は無料で、15〜20時と入浴時間が決められていたため、場内は常に子どもから高齢者まで多くの人であふれ返っていた。

「いちばんの思い出は風呂」と話す元島民も多く、端島の人々にとって共同浴場は島民同士の大切な社交場でもあり、特別なものだったといえる。

※本稿は、『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。


ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(編著:風来堂、著:宮台真司・生駒明・橋本明・深笛義也・渡辺拓也/清談社Publico)

松代大本営、アブチラガマ、新宿ゴールデン街、飛田新地、福島第一原発、香川・豊島、軍艦島、成田空港、東京・山谷、釜ヶ崎、長島愛生園 etc.……

「禁断」の土地の歴史と真実に迫る旅