無人の廃墟と化した軍艦島。代わりに植物が繁茂している(写真:長崎県観光連盟)
インターネットなどを通じてあらゆる情報が整理された昨今、世界のどの場所でもクリック一つで見ることができるようになりつつあります。そのような中、「今なぜ異界の回復が必要か。生きることが過剰につまらないからです」(『ルポ日本異界地図』宮台真司インタビューより)と発信するのが編集プロダクション・風来堂です。今回、その風来堂が手掛けた『ルポ日本異界地図』から「軍艦島(端島)」の記事を紹介します。

高層廃墟が物語るかつての栄華

軍艦島(端島)[長崎県長崎市]

“黒ダイヤ”を生む不沈艦の素朴な岩礁から始まる誕生史

長崎市にある長崎港から南西に18kmほどの海上。異様な迫力を纏(まと)いながら静かにたたずむ島がある。

「軍艦島」という通称で知られるこの島は、もともと岩礁からなる小さな島だったが、繁栄とともに周囲を6回にわたって埋め立て、島と護岸が拡張されてきた。南北に約480m、東西に約160m、周囲約1.2kmと、現在の姿が形成されたのは1931(昭和6)年のことである。

1890(明治23)年から1974(昭和49)年の閉山まで三菱(みつびし)所有のもと、良質な石炭を産出し、日本の近代工業化を支え続けたこの島。最盛期には世界最大の人口密度を誇ったが、いまや人っ子ひとりいない無人島で、島全体が朽ち果てた廃墟と化している。

この島の正式名称は「端島」。鉄筋コンクリート造の建物が立ち並び、煙突から煙を吐くその姿が軍艦「土佐(とさ)」に似ていたことから、古くから「軍艦島」と呼ばれている島だ。長崎の東シナ海側の海底には良質な炭田があり、端島のほか高島(たかしま)や池島(いけしま)など炭鉱で栄えた島々を総称して“黒ダイヤ列島”と呼ばれていた。端島は、その最南端に位置している。

端島の歴史は江戸時代まで遡る。1810(文化(ぶんか)7)年ごろに石炭が発見され、江戸時代の終わりまでは漁師が漁業の傍ら「磯掘(いそぼ)り」と称して岩礁の表面に露出した石炭を採炭していた。

しばらくは、このようにごく小規模な採炭が行われていたが、1875(明治8)年ごろに天草(あまくさ)(熊本県)出身で当時大地主だった小山秀(こやまひいで)が本格的に端島の開発に着手。しかし、台風の猛威により、わずか1年ほどで失敗に終わった。

その後、1882(明治15)年には佐賀藩(鍋島(なべしま)藩)の分家である深堀(ふかぼり)の領主・鍋島孫太郎(まごたろう)の所有となり、1887(明治20)年に深さ44mまで開削された第一竪坑(たてこう)が完成している。竪坑とは運搬や通気のために地上から垂直に掘り下げられた坑道のことだ。地下に張りめぐらされた坑道に地上からアクセスするための重要な通路となる。

1890(明治23)年に大きな転機が訪れる。実業家・岩崎彌太郎(いわさきやたろう)が創業した三菱の2代目社長であり、弟の岩崎彌之助(やのすけ)が10万円で端島を買収したのだ。この10万円は現在の価値で約20億円といわれている。これにより、端島は三菱の経営下で本格的な近代炭鉱としての開発が進められていったのだった。