全盛期の人口密度は世界最大 日本初のRC造高層アパートも

石炭の需要に並行して増加する従業員のための住宅建設も盛んに行われた。1916(大正5)年には日本で最初の鉄筋コンクリート造の高層アパート「30号棟」が完成。当初は地下1階、地上4階建てだったが、増築されて7階建てに。外観からは立方体に見えるが、実際はロの字型をしている。

内部に約6m四方の吹き抜けの空間があり、空間の周辺を回るように階段が配されていた。約140戸あり、基本的な間取りは6畳一間に台所がついた1Kで、子どもがいる家庭にとってはかなり手狭だったといえるだろう。室内には、かまどと流しのほかには押し入れと出窓のみ。高層アパートにかまどがついたつくりは端島以外にはほとんど見られない珍しいものだ。

翌々年の1918(大正7)年には、より規模が大きな鉱員社宅が完成。通称「日給社宅」と呼ばれ、9階建て(一部6階建て)の5棟が並び、全棟の西(外海)側に配された廊下で各棟を櫛形(くしがた)に連結していた。

木製の引き戸の玄関を入ると、かまどと流しが設置された土間、そして畳が敷かれた和室が二間と、日本家屋の風情にあふれた空間が広がっている。「長屋」を高層化したようなつくりといえばわかりやすいだろうか。

通路などの共用空間は洗濯や夕涼み、子どもたちの遊び場など、住人たちの交流の場として機能していた。複雑に連結された建物内は、まるで迷路のように入り組んでおり、知らない人が入れば、なかなか出られないとされていたほどだった。

軍艦島を象徴する「地獄段」と目抜き通り。この周辺は常に人通りが多かった(写真:長崎県観光連盟)

いずれも風呂なしで、各階には共同トイレが配されていた。トイレは水洗ではなく「落としトイレ」だったため、排泄物(はいせつぶつ)は排水管を通じてそのまま海に流されていた。台風の際は排水管を逆流した海水が便器口から噴き出すこともあったといい、なかなかハードなトイレだったことは間違いない。

1921(大正10)年には三菱社立尋常小学校が公立に移管。1934(昭和9)年に木造校舎が新築され、人口増加に伴い、その後、改築された鉄筋コンクリート造の校舎が現存している。校舎は6階建て(のちに7階に増築)で、竣工当時は国内の公立小中学校のなかで最高層だったという。

1〜4階は小学校、5、7階を中学校、6階は体育館を兼用する講堂として使用されていた。教室はすべて北側に配され、見晴らしもよく、晴れた日には長崎港付近まで見えたそうだ。

高層の建物が多い端島のなかで唯一エレベーターがあったのも、この端島小中学校。閉山が近づく1970(昭和45)年に給食が始まり、給食運搬用のエレベーターが新設された。そのほか、島内には幹部が暮らす鉱長住宅や病院、派出所、郵便局、神社、映画館、理髪店などが立ち並び、生活に必要なあらゆる施設がそろった完全な都市として機能していた。

もちろん、飲食店や商店も充実し、北西部にあった商店街は「端島銀座」と呼ばれ、酒や雑貨、衣類、飲食、食堂、青果店、鮮魚店などが軒を連ね、常に多くの人で賑わっていた。

こうして、1959(昭和34)年には史上最多人口となる約5300人を記録。島の面積はわずか約0.063平方km、しかもその半分以上が炭鉱施設に取られている狭隘(きょうあい)な土地だ。人口密度は8万3600人/平方km、当時の東京の実に9倍以上で、世界最大を誇った。