おまえの根性と、ノドさえ腐らなければ
上京後は事務所の社長さんのお宅に居候させていただいたのですが、ホームシックになりましたね。母に泣きつけば、「自分で選んだんやろ」と言われるはず。そこで、祖母にコレクトコールで電話。それも毎日です。「つらかったら、帰っておいで」の言葉を聞けば、逆に「帰れないな」と思う。揺れ動く気持ちのなか、祖母との電話はこの頃の私の支えになっていました。
まだ14歳の子どもで、耐えられる容量が少なかったのでしょう。「つらいな」と思うことは多かったのですが、壁に当たった私が恩師の星野哲郎先生のところに泣きごとを言いに行くと、先生はいつもこうおっしゃいました。「おまえの根性と、そのノドさえ腐らなければ、必ず何とかなる。とにかく前を向いて歩け」。その言葉に、「よし、頑張ろう」といつも励まされました。先生は2010年に亡くなられましたが、私にとってずっと特別な存在であり続けました。
サポートのため、母が東京に出てきたのは、私の上京の1年後です。母もずいぶん大変だったと思います。何しろ、熊本の小さな町で主婦をしていたのが、40歳で東京に出てきて、まったく縁のなかった芸能界にかかわることになったのですから。
芸能界にはいろいろな方がいて、田舎では考えられないようなことも起こります。母も戸惑ったり、納得がいかなかったりで、葛藤も相当にあったはずです。でも、それらを一つひとつ乗り越え、時を経て、今は私の事務所の社長を務めてくれています。
その母と二人三脚でやってきました。厳しさは相変わらずで、私が難しい曲に苦しんで、「こんなの歌えるわけない」とこぼすと、「他の人にできて、あなたにできないわけはない」という言葉が必ず返ってくる。「それは違う」って思いますけど。(笑)
私も、母に投げられた難題を、こっそり練習してクリアし、平気な顔をして歌う。そこに達成感があって、そんな娘の性格を母は知り尽くしているんですね。ほめたり甘やかしたりはせず、はたちになったときも、「あんたの成人式は、歌手として一人前になったときだ」と、お祝いもなし。
それが、初めて『紅白』に出場した30歳のとき、「はたちのお祝いもしてあげなかったから」と言って、初めて指輪をプレゼントしてくれたのです。当時、流行っていたカルティエのラブリング。嬉しかったですね。