笠置シヅ子さんのケジメの付け方

そういった意味で、いま私は、笠置シヅ子さんの歌手としてのケジメの付け方にとても興味があります。何を感じ、何を考え、どのような心情で歌手を廃業されたのか。

 笠置さんが歌手を廃業なさったのは彼女が42歳の時でした。

大晦日のNHK紅白歌合戦の舞台、しかも大トリとして「ヘイヘイ・ブギー 」を歌ったことが形(カタ)としての彼女自身のケジメだったのだと思います。

20歳の時に吹き込んだ、「恋のステップ」から22年程の歌手人生であったということです。

しかしその22年の中には、戦争があり、愛する家族や恋人との死別があり、愛娘の出産があり、それでも数え切れないほどのヒット曲があり、数え切れないほどのステージで歌い、数え切れないほどの映画で演じる、まるでジェットコースターのような日々が歌と共にあったのでしょう。

時間の長い短いではなく、笠置シヅ子という歌手は鮮やかにその時代を生きたのです。私は以前、「時代が笠置シヅ子を求めた」というように書いたことがありますが、笠置さん自身は時代のため、人のためなどではなく、強いて言えば愛娘のエイ子さんのため、何より湧き上がって来る「自己表現欲」を昇華させたいために歌ったのだと思います。

その表現の欲は服部良一先生も同じくで、お二人はまるで二人で一つの人間のようなひと時代を生きておられたのではないでしょうか。

御子息の服部克久さんが「親父さんにとって笠置シヅ子は、もしかしたら自分の一部なのかなぁ」と、のちのインタビューで話していらっしゃる通り、どちらかが欠けても和製JAZZという素敵な音楽は生まれていなかったのではないかと思います。

作曲家・服部了一は1907年に大阪生まれた。1936年コロムビアの専属作曲家となり、淡谷のり子『別れのブルース』を作曲。ほか代表曲に『蘇州夜曲』『山寺の和尚さん』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』などがある。作曲家としては古賀政男に次いで史上2人目となる国民栄誉賞が授与された。93年、85歳で死去した(写真提供◎神野さん)