生命の象徴

与えると損になると思う人がいる。そのような人は、「与える」(give)ことは何かを諦める(give up)ことであり、与えると自分が貧しくなると考える(Erich Fromm, Man for Himself )。

そこで、そのように考える人は、他の人に何も与えようとしないか、与えるとしても見返りがある時にしか与えない。フロムはこのような人を「非生産的」な性格の人という。

アドラーは「天才と信じられている子ども、例外的に聡明な子どもたち」について論じている(『個人心理学講義』)。彼〔女〕らは称賛されるけれども、愛されない。成績が優秀でも、自分のことしか考えていないので好かれない。

アドラーは才能というものを認めず、すべては「自力で身につけられた創造力」であり、「天才とはただ勤勉である」というゲーテの言葉を引いているが(“Schwer erziehbare Kinder”)、優秀でも自分の能力をただ自分のためにだけ使う子どもがいるとしたら、教育の失敗である。

自分のためでなく、他者に貢献するために学び、自分の能力を他者に与えようと思ってほしい。

『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(著:岸見一郎/中央公論新社)

私は進学校で講演する時などに「自分のことしか考えないエリートは、有害以外の何ものでもない」と若い人に訴えてきたが、与えることは貧しくなることではないことを、大人は若い人に教えなければならない。

他方、「生産的」な性格の人は、与えることにまったく違う意味を見出す。「生産的」とはフロムの言葉で、「創造的」「自発的」という意味である。

生産的な性格の人は、与えるという行為によって、貧しくなるどころか、自分が強く、豊かで、力があることを経験する。

にじうおは初めは他の魚に与えることを拒んだが、与えることで自分の強さ、豊かさ、力を経験し、それにより喜びを感じるようになったのである。

にじうおは何を与えたのだろうか。

フロムは生産的な人は、自分自身、自分のもっとも重要なもの、つまり、「生命」を与えるという(フロム、前掲書)。

無論、これは文字通り生命を捧げることではない。自分の中に息づいている喜びは自分を活気づけるが、それを与えた他者をも活気づける。

にじうおの輝くウロコは生命の象徴である。