健全な社会の縮図

若い頃、ある精神科診療所で週に1日だけ働いていたことがある。その診療所には60人ほどの人が、社会復帰を援助するプログラムであるデイケアに通ってきていた。私が出勤する日は、皆で昼食を作ることになっていた。

朝、その日作るメニューをスタッフが発表し近くのスーパーに買い物に行くのだが、買い物に一緒に行く人は少なかった。診療所に戻ると料理を始める。その時も手伝うのは15人くらいで、後の人は手伝わなかった。

昼時になって料理ができたことを知らせると、診療所のどこからともなく皆が集まってきて、そろって昼食を食べた。

この診療所ではその日手伝わなかった人を責める人はいなかった。今日は元気だったので手伝えたけれど、もしも明日体調がよくなくて手伝えなくても許してほしいという暗黙の了解事項があったのである。

普通の社会であれば、「働かざる者食うべからず」というようなことをいう人がいるかもしれない。しかし、料理を作れる人がその日何もできない人のためにも料理を作るこの診療所は、働く人も働かない人も共存する健全な社会の縮図であると私は思った。

しかし、これとて働くことに価値があり、働けない人を働ける人が支えているとなると、働く側に回れない人は気兼ねすることになるかもしれない。

生まれたばかりの子どもに誰も働けとはいわないように、働く人もそうでない人も同じ価値があると思えるようになるためには、人間の価値を生産性でなく生きること自体にあるという真実を誰もが認める社会にしないといけない。

輝くウロコを持っていなくてもいいのである。

※本稿は、『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。


悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(著:岸見一郎/中央公論新社)

『嫌われる勇気』の著者は、就職難、介護、離別などさまざまな苦難を乗り越えてきた。

氏を支え、救った古今東西の本と珠玉の言葉を一挙に紹介。

マルクス・アウレリウス、三木清、アドラーなどNHK「100分de名著」で著者が解説した哲人のほか、伊坂幸太郎の小説や韓国文学、絵本『にじいろのさかな』、大島弓子のマンガなどバラエティ豊かで意外な選書。

いずれにも通底するメッセージ=「生きる勇気」をすべての「青年」と「元・青年」に贈る。