何もしていなくても愛を与えている

親が「物を与えることが愛だ」と見てしまうのは問題である。フロムは次のようにいっている。

〈8歳半から10歳になるまでの大抵の子どもたちにとって、問題はもっぱら愛されること、ありのままの自分が愛されることである。この年までの子どもは愛されることに喜んで反応するが、まだ愛さない〉 (The Art of Loving)

親から愛されるばかりだった子どもは、やがて親を愛するようになる。「愛を生み出す」という新しい感覚が、自分自身の活動によって生まれるというのである。

〈子どもは、初めて母親(あるいは父親)に何かを「与える」ことや、詩とか絵とか何かを作り出すことを思いつく。生まれて初めて、愛という観念は、愛されることから、愛すること、愛を生み出すことへと変わる〉 (前掲書)

愛はこのように「何かを「与える」」という行為でなければならないと考える人は多いだろう。「何かを「与える」」という行為は愛の表現だが、愛することを目に見える行為と考える人は、愛だけでなく、他者に与えること、貢献することも行為として目に見えるものでなければならないと考えるだろう。

しかし、幼い子どもは、何もしていなくても親に愛を与えているのである。子どもを愛しているのに、子どもから返ってこないと落胆したり、将来、子どもに返してもらおうと思ったりする親は少ないのではないか。

幼い子どもは、何もしていなくても親に愛を与えているのである(写真提供:Photo AC)

子どもがたとえ言葉を発しなくても、子どもの顔を見るだけで親は癒される。子どもは行為ではなく、その存在で親に愛を与えているのである。この時、親は子どもから愛を与えられているが、親が子どもを愛したその見返りとしてではない。

子どもは何もしていなくても、周りの人に幸福を与え、生きていることで貢献している。そうであれば、大人も何もしていなくても、他者に貢献していると考えていけないわけはない。

しかし、そうは思えない人は多い。今の世の中は、何かを作り出すこと、生産性に価値があると考える人が多いからである。その上、ギブ・アンド・テイクに囚われ、与えられたものを返さないといけない。

しかも、目に見える形、行為で返さないといけない。そう考えてしまうと、他者に与え貢献できない、それどころか、他者に迷惑をかけてばかりいると思った人が、自分にはもはや生きる価値がないとまで思いつめてしまうことになる。