どうでもよくなる
九鬼周造がこんなことを書いている。
作家の林芙美子が北京への旅の帰りに、九鬼のいる京都へ立ち寄った。林が何かの拍子に小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて皆で聴くことになった。
〈「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」〉 (「小唄のレコード」『九鬼周造随筆集』所収)
九鬼は林のこの言葉に「心の底から共鳴」し、こういった。
〈「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」〉 (前掲書)
私は学生の頃、オーケストラでホルンを演奏していたので、他のことはどうでもよくなるという気になると林や九鬼がいったことの意味がよくわかる。
あの頃は勉強もしていたが、講義室に行く前に部活動室に直行していた。
〈私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉(ことごと)く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる〉 (前掲書)
ふと合理的に考え、計算してしまうと、こんなことをしていていいのかと思ってしまうと、生きる喜びは失せてしまう。
※本稿は、『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(著:岸見一郎/中央公論新社)
『嫌われる勇気』の著者は、就職難、介護、離別などさまざまな苦難を乗り越えてきた。
氏を支え、救った古今東西の本と珠玉の言葉を一挙に紹介。
マルクス・アウレリウス、三木清、アドラーなどNHK「100分de名著」で著者が解説した哲人のほか、伊坂幸太郎の小説や韓国文学、絵本『にじいろのさかな』、大島弓子のマンガなどバラエティ豊かで意外な選書。
いずれにも通底するメッセージ=「生きる勇気」をすべての「青年」と「元・青年」に贈る。