東京女高師附属高女での生活

嘉子の演技の能力は、もしかしたら「宝塚」が好きだったこととも少し関係しているかもしれません。

この頃の嘉子は、男役の雪野富士子<1905―1939>の大ファンでした。雪野は宝塚少女歌劇団雪組の男役でしたが、1934(昭和9)年に退団、若くして亡くなりました。

宝塚少女歌劇団は、1913年結成の宝塚唱歌隊を前身とし、現在は宝塚歌劇団という名称になっています。宝塚大劇場が有名ですが、早い段階から帝国劇場でも公演を行っており、また1934年には東京宝塚劇場が開設されたので、嘉子も東京で観劇に行ったことがあったかも知れません。レコードや絵葉書、脚本集なども広く売られていました。

入学してすぐにできた4人の友人とは、東京女高師附属高女時代はいつでもどこへ行くにも一緒で、その友情は生涯続きました<『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』より>

嘉子はダンスも上手で、体操の時間に嘉子がダンスの振り付けを考えて、仲間たちと創作ダンスを踊ったこともありました。

翻訳物の文学書に夢中になった時期もあり、仲良し5人組で同人誌のようなものを作って小説を書き合ったこともあったようです。