豪傑といえば豪傑な人で、酒好きなうえに博打好き。一度、借金のカタにされて、母も私も必死で逃げたことがありました。昔の任侠映画みたいですわ(笑)。そんな生活だし、「よそもの」だったので、学校ではいじめられもしました。石を投げられたこともある。
けど負けてなるものかと思ったんです。生来、負けん気が強かったし、泣き寝入りは嫌だった。相手の親の所に行ったり、校長室に駆け込んで訴えたりした。そのためには勉強ができて、みんなに認めてもらう必要がある。頑張って、頑張って、いつも成績は100点満点で1番でした。
護身術として、父を慕ってうちに来ていたおまわりさんから、柔道を習ったのもこの頃です。
女だからでなく実力で認められたい
絵を描くことや本を読むことは、物心ついた頃からものすごく好きやった。古本屋でゴッホやらピカソやらの画集を夢中で見ていました。お金がなくて立ち読みする私に、店主が「貸したる」と言ってくれたこともあった。ありがたい時代でしたな。
初めて陶芸に触れたのは、小学6年生のとき。先生がなぜだか私を窯に連れて行って「陶器のできるまで」という紙芝居を作らせて、全校生徒の前で発表させた。それを機に、町はずれでいつもゴザを敷き、ふんどし一丁で狸の置物を作る爺さんのところへ、面白いからとよく見に行っていましたな。けれど自分で作りたいとまでは思わなかった。
中学生のとき、学校で描いた絵が滋賀県の絵画大会で金賞をもらって、先生が家に来て父に進言してくれたことがありました。「美術学校に進ませてやってほしい、信楽に女性の芸術家がいてもいい」とまで言ってくれた。けど家にお金はないし、昔気質の父は「女に学はいらんッ!」の一点張りで叶いませんでした。
晩年、父が病気で臥せって、死ぬ間際に「あんとき、学校に行かせんで悪かった」と言ってくれました。ずっと気にしてくれていたんでしょう。けどいいんです。ああいうことがあったから屈するまいと思った。境遇なんぞに負けてたまるか! って。
中学卒業後はツテで、信楽でいちばん大きい陶器製造会社に就職しました。作陶に関心があったわけではなくて、とにかく好きな絵が描きたい一心でした。当時の信楽は全国の火鉢の9割を生産していて、上塗りをした火鉢に筆で絵付けをするんです。
初めは新聞紙や、売りもんにならない火鉢を使わせてもらって、必死で練習しました。女だからダメだ、使えん、と言われたくなかったから。目のまわる忙しさだったけど、夜なべして草花の図案を描きまくりました。
“日本初の女性絵付師”として取材を受けたのはこの頃です。記事を見たとき、この仕事で勝負しようと、ふつふつと闘志が湧き上がったね。女だからじゃなく実力で認めさせたる、と思いました。