真冬の信楽の里に辿り着いて
見てください。この、緑色でビードロみたいに光る陶器の破片。今思うと、これがすべての始まりやったんやね。息子の賢一が「きれいや」って持ってきたこの破片がきっかけとなって、「自然釉」を再現できた。運命というか、奇跡というか。そういうものを感じてしまうね。
そもそも焼き物と何のご縁もなかった私が、信楽に住むことになったのも、不思議なもので。実は、夜逃げしてきたんよ。私は、長崎県の佐世保生まれ。父の繁は炭鉱で人夫さんらの親方をしていましたが、キツい仕事に耐えられんかった出稼ぎの朝鮮の人たちの脱走を父が手助けしたと警察に疑われ、追われることになったんです。
終戦間際の混乱期、すし詰めの鈍行列車の床に座って関西に向かったのは、私が小学2年生、弟が5歳、妹はまだ2歳のときでした。お腹はすきっぱなし。広島あたりで配給のおにぎりが回ってきたけど、腐っていて食べられなかった。
滋賀県に着いて日野という山奥で暮らし、小学5年生のとき、信楽に越しました。真冬だったけど貧乏で靴下がないから、裸足でしもやけだらけ。住む家もなく、山の中に父が建てた掘っ立て小屋にゴザを敷いて、ランプの灯で生活したんです。
幼い頃は瓦屋根の家に暮らすのが夢だった。でも、今もこの、70年も前に父が建てた雨ざらしのトタン屋根の家に住んでますな。(笑)
父は炭鉱に勤めながら、借金して裏山を一つ買って、材木工場を始めた。勤めに行くときは私が弁当をこしらえました。弟や妹がまだ小さくて母のトミが大変でしたから、家の仕事のほとんどをやっとったね。家の周りには柿や桃を植えて、田んぼを借りてもち米を作った。畑では芋やら大根やら、いろんな野菜を育てて、自給自足の生活。
でも、いつも家には人が溢れていた。父は情に厚い人だったから、困った人は放っておけん。従業員には賃金を日払いしたり、お金を貸したりして。そこにおにぎりや赤飯も付けるもんだから、家族は食べられず、年中、お腹はすいてるわ、腹立つわでたまったもんじゃない。