賢一さんが拾ってきた自然色のビードロ釉の破片。今でも大切に保管している

登り窯でもない、私だけの色を出すための窯

そのひとつが手びねりです。私はろくろを使わない。すべて手で成形するんです。ろくろを使うと誰が作っても同じ、似たような形になる。

そしてもうひとつは、釉薬を使わない、自然釉の信楽焼を作り出すことでした。窯の中で燃えさかる火と温度、焼き時間が作り出す自然の色。焼いている間に、薪の灰が降りかかって、それが溶けるとガラスのような青緑色の、それは美しい色が出る。ビードロ釉ともいわれるものです。

平安時代から焼かれていた自然釉の信楽焼。本でしか見たことのないあの色をどうしてもこの目で見たい、作り出したいと思った。

34歳で、家の庭に半地上式の古代穴窯を作りました。研究に研究を重ねて普通の穴窯でもない、登り窯でもない、私だけの色を出すための窯です。地名から“寸越窯(すんごえがま)”と名付けました。このときも「女が窯作ってどうすんねん」と陰口を叩かれましたが、私は気にもとめなかった。

同じ年、私は毎日選抜美術展、朝日陶芸展で入選します。夫も、会社を辞め陶芸家として活動していましたが、私の名前ばかりが広まっていく。思えばこのときから、彼は劣等感を抱いていたんだろうね。

そして、ついに私の人生を引っかくような事件が起こりました。夫が、住み込みで働いていた私の弟子の女性と関係していたことがわかったのです。

私ばかりが注目されていることが面白くなかったんでしょう。私に来た取材を勝手に断ったり、暴力を振るったりするようになって。鉄の棒を持って追っかけまわされ、まだ小学6年生だった息子が、父親の前に立ちはだかってくれたこともありました。

夫は女と出て行きました。私は悔しくて悲しくて、情けなくて、死を考えるほど追いつめられました。だけどあるとき、ふと思ったんです。あんな人のために死ぬなんてまっぴらや。生きなきゃ損だ! って。

離婚しなくたって、人間、いつひとりぼっちになるかわからない。自分を強く持って自立しないと、と思ったんだね。これからはひとりで生きていく。私が焼き物で子どもたちを守って生きていく。腹をくくりました。

〈後編につづく