土を求めて軽トラックで全国へ
離婚してからは、ますます陶芸にのめりこんでいきました。自然釉を作り出すためには土選びが重要なので、全国の土を求めて80ヵ所ぐらい回ったね。軽トラックにスコップと鍬、長靴を積んで、子どもを連れ、あちこちでテントを張って。
貧しいから店で食事なんてできん。包丁とまな板を持って海山の幸をもらいました。魚を釣ったり、きのこを採ったり。土地土地の山から土をもらってきては、練って窯で焼いて実験する。土泥棒やね。(笑)
細かく「窯焚き日記」を付けました。天候や時間、窯の温度を15分おきに記録する。もう執念や。ひとつの道を極めるには執念しかありません。古の色を復活させる、これは私に与えられた使命と思えました。
こういうところは父にそっくりなんやね。厄介な人でしたけど、ものごとをよく観察する独特な人でした。野菜の種を蒔いたら、芽が出て何センチ伸びたかを、ものさしで記録する。必要な堆肥も自分で作る。
父に言わせれば、「ものはイチからこしらえるのがあたり前、人に頼んだもんは、作ったとはいえん」と。そういう性質は似てるんですね。成し遂げるまで決してあきらめんところも。
そして、息子が12歳になった頃、彼が釉薬を使ってない自然色、ビードロ釉の陶器の破片を拾ってきた。それこそ、私の探し求めていた色。聞いたら家のすぐ近くでブルドーザーが山を削っていて、そこで拾ったと。灯台もと暗しやったね。
この土やッ! と真夜中にスコップを持って行ったら、土に埋もれた古代の穴窯がふたつ出てきたんです。秘密の発掘気分やね。この日が出発点となりました。
ちょっとばかり名が知られたといっても、子どもをふたり連れての生活は食うや食わずで、いよいよ薪も買えん。出稼ぎせねばならん、と思っていた矢先に、救いのようにこの土が現れてくれた。窯に火入れして、1200度に保ちながら薪を焚いて6日、7日……窯の中は轟々と燃えさかって、陶芸家が命を懸ける時間です。そして16日目に火を止めた。
長い間、研究し続けた結果で、これで必ずできるはず。窯出しの日、緋色に焼けた壺に、見事にきれいなビードロがかかっていた。私が発見した色、焼き方です。泣けました。