自宅に飾られている賢一さんの写真。献体への感謝状は1994年に贈られたもの

息子が流した血の涙

ないなら作ればいい。知り合いに厚生省(当時)の人がいて、訪ねたら2、3日後に電話をもらって、応援しますと言ってくれました。

「今、誰かが動かんと、10年、20年後も変わらないです」。その言葉に、どんなに勇気づけられたことか。骨髄バンク設立に向け、滋賀県の医師たちも応援してくれて、全国の医師会へ広がっていったんです。支援者も増えていきました。

ただ、世の中にはいろんな人がいるもので、心ないこともずいぶん言われました。病気がうつるだの、恥さらしだの……。私が涙を見せんもんだから、薄情だとも言われた。悔しかったです。けどな、泣いてなどいられん。泣いたら自分もふにゃふにゃになってしまう。女はなよなよしたらいかん。

作品を売ったお金もすべて、運動や治療費に消えてしまった。それでも、踏ん張って、ようやく翌年、賢一は、名古屋赤十字病院で移植手術を受けることになった。完全に適合したわけではないけれど、私の妹が提供者になってくれた。

最後の望みでしたけれど……だめでした。私は、息子が帰ってくることを願って、家の玄関先にムスカリの花の球根を、たくさん植えていたんです。息子が好きだった、春に咲く花だから。

運動のかいがあって、91年の12月に「骨髄移植推進財団」が立ち上がりました。けれど、息子の命の火は日に日に弱くなっている。あと何日、何日……と命が縮まっていくのを見るのは辛かったです。年が明けて、私は思いきって息子に遺体を医学の研究に使ってもらう“献体”の話をしました。